A.D. 〜我ら主の年〜(第1話)
出会いの日 01

 その少年はぼたん雪の降る2月の早朝、日本聖公会東京教区東雲教会牧師館入り口の敷石の隅で、シーツを被ってうずくまっていたので、扉を開けた本条牧師は驚いた。
 眼を閉じたままの少年は見たところ10歳前後で、色白の肌に外傷の跡はなく、明るい栗色の髪が日本人離れした印象だ。少年の脈と安定した呼吸を先ず確認した牧師は、額に手を当てると熱もないので、眠っているだけだろうと判断した。
 教会暦ではその日から復活祭を迎えるための準備期間(大斎節)に入ったので、牧師は毎朝7時からの早朝聖餐式に備えなければならなず、少年をとりあえず、床暖房の入っているすぐ隣の礼拝堂に運び込み、一番奥の祭壇に近いベンチに横たえると、信徒からのもらい物の、分厚いリバーシブルの毛布をかけてやった。
 この年齢だと家出や犯罪に巻き込まれた可能性も考えられ、警察当局へ通報の義務があると思われたが、牧師としては寄る辺ない少年を事情も分からず引き渡してしまうことに抵抗があったので、目覚めるまで待つことにしたのだった。
 聖餐式のためのワインやウェハースの準備を整え、祭壇の蝋燭にも火をともして、開始5分前の鐘を鳴らす頃には、娘の香織が起き抜けの顔で、それでも時間に遅れず礼拝堂にやって来て、入り口近くの一番手前のベンチに腰を降ろす。外でミニバイクのエンジン音が響き、付近で止まったと思うと神学生の堀井進も時間ギリギリに間に合った。
 毎年この時期、大斎節の早朝聖餐式は決まってこの3人だけで行われて来た。悩みを抱えた求道者などが、稀に加わることもあるが、40日の大斎期間全日程を制覇しようという信徒は、最近では滅多にいない。

 父と子と聖霊なる全能の神の恵みが常に皆さんと共にありますように…

 自身の祝祷で聖餐式を終え、蝋燭が消されると本条牧師は礼拝堂を出て行こうとする娘と神学生を呼び止めた。
「実は今朝、ちょっとした拾い物をしてねぇ…。」
 父親の悪戯っぽい眼の輝きに娘の香織は興味津々、神学生の堀井は警戒心をあらわにした表情で牧師の指さすベンチを覗き込む。
「…誰? この子。」
 牧師が予想した通り、しばしの沈黙の後最初に質問を発したのは、高校生の香織だった。
「それが、何も分からないんだよ。」
「先生、子供ってそこら辺に落ちてたりするものなんですか?」
 熱心な神学生のくせに、常に斜に構えて皮肉っぽいのが堀井の唯一の欠点だと、牧師はいつも残念に思っている。
「今朝牧師館を出たら、玄関の敷石でうずくまってたんだぞ。他になんて言うんだ?」
「この年齢だと、家出ですかねえ…。」
「だとは思うが、シーツを被っただけで服を着てないんだ。事件に巻き込まれたのかも知れない。どっちにしても通報はこの子が目を覚まして、事情が分かってからにしようと思ってるんだが。」
「それがいいでしょうね。家出だった場合、下手に通報すると逃げられる可能性もありますから。」
 神学生が同意してくれたので、牧師は自分の判断が間違いでなかったとホッとしながら尋ねる。
「ところでこの子が目を覚ました時、傍に誰かいないとマズイだろうな。私は午前中、教区事務所に行かなきゃならないんだが…。」
「かまいませんよ。僕なら今日はギリシャ語が休講日なんです。他の教科も単位は大丈夫ですから、この子と一緒にお帰りを待ってます。」
「目が覚めた時、食べ物用意しといた方がいいかもね!」
 香織が横から口をはさむ。
「台所をお借り出来れば、得意料理のシチューを作っておきますよ。」
「得意料理って、堀井ってばソレしか作れないんじゃん!」
「これ香織! 堀井君に謝りなさい!」
「いいんですよ先生。図星指されていちいち立腹してちゃ始まらない。」
 結局、少年は牧師館1階の共有スペースである、掘り炬燵のある和室に寝かされることになり、登校時間の迫った香織が大慌てで寝床の準備を整えた。
「それじゃ、後を頼むよ堀井君。シチューの材料は、うちの冷蔵庫の何でも、使ってかまわないから。」
「ありがとうございます。目を覚ましたら、あの子によろしく言っておきますよ。」
 父親に続いて、香織も高校に向かうため、父とは反対方向のバス停を目指して歩き始めた。

 A.D. 2006年2月、前夜からの雪もほぼおさまり、雲の切れ間から明るい青空が見え始めた朝だった。


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