A.D. 〜我ら主の年〜(第3話)
出会いの日 03

 昼近く、本条牧師が教区事務所から戻って来ると、牧師館1階の共有スペースにある、信徒のための台所から楽しそうな人声が聞こえていた。
 足音を忍ばせ、戸口からそっと伺うと、後を任せた堀井はともかく、登校したはずの娘とその同級生、滝本マヤまでが嬉々として立ち働いている。好奇心いっぱいの彼女らの年代なら、充分予想出来たことだ。ちゃんと学校に行けと、出掛けに声をかけておくべきだったのだろう。

“僕を拾ってくれてありがとう、牧師さん。”
 透明感のあるボーイ・ソプラノが、突然牧師の頭のてっぺんあたりに鳴り響いた。驚いてあたりを見回すと、台所の奥の大きなガスコンロの前で、背を向けてシチュー鍋をかき回していたあの少年が、こちらを振り返ってほほ笑んでいる。
「あっ、パパお帰り!」
 少年の右隣に立った娘もその視線を追ってこちらを向き、悪びれもせずに声をかけて来る。その手前左手では、壁際に据えられたシンクとカウンターの上で、洗い終えたサニーレタスを笊に上げたり、フランスパンを切り分けたりしていた堀井とマヤもこちらを向いて頭を下げた。
「…ええと。たった今ボーイ・ソプラノが聞こえたような気がしたが、空耳かな?」
 少年が長い木しゃもじを置き、ゆっくりと進み出た。
“済みません、それは僕です。皆さんの言葉をまだ話せないので、心に直接話しかけています。”
 少年の唇はピクリとも動いていない。牧師は腹話術でも使っているのかと訝ったが、それにしても…。
“もちろん腹話術とは違います。堀井さんは僕のこと、エムパスだとおっしゃいました。”
「…なるほど、どうやったか知らないが心が読めるらしいな。ところでエムパスって何だね?」
「精神感応者のことですよ。ご覧の通り、彼はテレパシーで会話が出来るようなので。」
 思わず疑問を口に出すと、今度は堀井が答えてくれた。
「堀井君。君が神学生のくせに、ユングだとかオカルトだとかに惹かれてるのは知ってるが、この手品だか芝居だかは、いくら何でも…。」
 突然、マヤの切り分けていたフランスパンがダンスを踊りだした。
 しばらくまな板の上でポコポコ飛び跳ねていたかと思うと、いくつかの切れ端が堀井の鼻先をかすめて飛び、牧師の顔の数センチ手前でピタリと止まり、直後にバラバラと落下する。
 本条牧師が恐る恐る拾い上げたその切れ端は、どこから見てもただのフランスパンだ。
「驚いたな! こりゃエムパスなんて生易しいもんじゃなさそうです。物体をこれほど自由に操れるとなると、かなり訓練されたESP能力者かも知れません。警察に引き渡すには、ますます問題になりそうですね…。」
 本条牧師は呆然としたまま、拾ったパンの切れ端を堀井に渡し、落ちたものは軽く焙ってくれともごもご言った。そして少年に目を戻し、
「その、君を何と呼べばいいのか分からんのだが…。」
“あなたのお嬢さんが、『コハク』というあだ名を付けてくれました。本名は味気ないので、この名がいいです。”
 琥珀と聞いて、牧師に心臓がびくんと鳴った。その英名「アンバー」は、数年前亡くなった彼の妻のファーストネームなのだ。
 その名を与えられた少年の瞳に出会うと、名付けた娘の気持ちがよく分かった。
 結婚して初めて迎えた彼の誕生日に、妻から贈られた涙滴型ペンダントの琥珀の色と、見まごうほどの透明感なのだ。
「とにかく、思ったより早く戻られてよかったですよ。拾っていただいたあなたがいないと話したくないと言うので、僕らもまだ、この子の事情が分からないままなもので…。」
「掘りごたつの部屋で、ゆっくりランチしながら話そうよ。」
“みなさんありがとう。食事を作る体験は、僕にとって初めてでしたが、こんなに楽しんだのは初めてです。”
「言っとくけど、食べる方がもっと楽しいぞ。味は保証つきだからな!」
「まぁ今回は、香織やマヤの協力があるからな。何とか食べられる味にはなってるだろうが…。」
「先生! なんつーコトを言うんですか、お客さんの前で!」
 その傍らで、香織とマヤが弾かれたように笑い出す。
 コハクと呼ばれることになった少年は、彼らのやり取りを食い入るように見つめていたが、その瞳には羨望の色が、はっきりと表われていた。


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